『君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか』


バリー・ストラウド、春秋社。副題は「哲学的懐疑論の意義」。

デカルトは暖炉のそばに腰掛けて紙を一枚手にしているときに考える。いま私は、暖炉のそばに腰掛けて紙を一枚手にしているということを知っている(以下、「知識」と同義)のか?もし夢を見ているのであれば、私はこのことを知らないことになる。いま私が夢を見ていないことは証明できない。つまり私がいま暖炉のそばに腰掛けて紙を一枚手にしている、ということを私は知らない。そればかりかこの世に現れるどのようなことであれ、私は決して知ることはない(私は世界に対する知識を全く持っていない)。

この懐疑論に対して現代の多くの哲学者は、そんなことはとっくに解決しているのだからそんなばかげた議論に関わる必要はない、と考えているようだ。著者バリー・ストラウドは、本当に懐疑論に対する結論は出ているのか?と問い直す。そしてこれまでに出てきた懐疑論に対する反論を多く取り上げ、それらはどれも懐疑論が持つ疑問に対して十分に答えていない、と論述する。とはいえストラウド自身、だから哲学的懐疑論は正しいのだ、とは言っていない。この本は、まだこの問題については考え続ける必要があるんじゃないの?といっているだけなのだ。例えば次のような反論に対して、丁寧に答えている。

 日常生活において「知識」という言葉はそのように捉えられることはない。日常的には、知識を持つためには夢を見ていないことが常に知られていなければならない、とは考えられていない。つまりデカルトは言葉の意味を取り違えているのだ(オースチン)。
 ここに右手がある。そしてこちらには左手がある。ゆえにそのふたつの事実を持って外的な事物が存在することは証明できた。そして私はそのことを知ることができた。デカルトの言っていることは、だからおかしい(G・E・ムーア)。
 経験的なものから外的な事物の存在を証明することはできない。経験的なものは内的なものだからである。人間は対象に対する知識を持っているのではなく、一般に対象を知る方法に関する知識をアプリオリに持っている(超越論的認識論)。このことから、外的な事物を経験によって知ることができる(カント)。
 実際に起こりうるどのような経験をしたところで、外界の存在を信じることの方が外界の非存在を信じることよりも裏付けが少しでも多くなることはあり得ない。つまりそのような問いは検証が不可能であり、その問いが無意味であることを示している。したがってデカルトの言うことは無意味な言論である(カルナップ)。
 哲学的議論も科学的議論と変わらない。程度が違うだけである。そこでの問題や課題が科学の内側から提起されているだけではなく、その解答も科学の内側に探し求められるべきである。つまり科学的方法によって知識を得ることができる(クワイン)。
などなど・・・

上で書いたことはもしかしたら私の読み違いかもしれないので、あまり鵜呑みにしないように。とにかく難しく、はっきり言って理解できたとはとうてい言い切れない。でも具体例がたくさん出てきて、言葉遣いも易しく、面白かった。
誰しもが一度は考えたことがあると思われるこの話。あなたも哲学的懐疑論の深みに入ってみませんか?

shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。