『分類という思想』池田清彦

 新潮選書。著者は構造主義生物学の立場に立つ生物学者。この本はちょっとわかりにくい内容だと思う。著者の言いたいことを理解するのが難しい。彼の思想は全編に亘ってあふれ出ているのであるが、結論が何なのかが最後の方まで読まないとよくわからないのだ。つまり本の全体像がわからないと、細部の意味がわからないというか。
 分類というのは道具ではなくて思想なのだ、というのが主眼点ではあるが、本書の結論は違うところにある。ここで間違うと読んでいてわけがわからなくなる(私のことである)。
 初めの方は、コトバと分類との関係について論じている。例えば虹の色が何種類から成っているかというのは言語によって違っていて、分類というのはコトバによって縛られているのだという例が挙げられている。そして普通の自然言語というものが分類に適したものかどうかというのはとても怪しくて、男と女、生物と無生物、植物と動物(これらはすべて自然言語である)の境界ははっきりしないという。さらにコトバは大きく固有名と一般名とから成り、普通は時間を生成するものだという(ポチは昨日と今日では違うし、犬も固定化されたものではない)。科学の基礎は、この時間を生成するコトバを、時間を生成しないもの(これを構造と呼んでいる。例えば数や記号や円などの純粋形態はここに含まれる)だと錯認することによって成立するのだと論じる。これは重要な論点で、先回りして言えば、生物名という自然分類名は時間を生成するので本来非科学的なものであるが、これを純粋形態である円や球といった構造に還元することによって科学的実在とみなすことができ、これによって科学的な生物分類体系ができあがるのだ、と結論づけている。そしてこれが著者の提唱する構造主義分類学なのだ。
 結論を急いでしまった。実は現在、生物を分類する現代分類学では構造主義分類学は主流ではない。普通現代分類学といえば、表形学、進化分類学、分岐分類学の3者をいい、特に後者二つは系統分類学と呼ばれている。この本からだけでははっきりとはわからないが、この中でも進化との相性が良くて系統樹による分類を行う分岐分類学が主流っぽい。そして著者が標的にしているのが、主にこの分岐分類学である。これに対する批判は多方面から行われており、分岐分類学の非科学性がやり玉に挙げられている。その根拠は本書を見ていただきたい。この短いブログでわかりやすく紹介するのは無理である。その論破の仕方は見事な論理構成に基づいている。そして最終的には、現代分類学は生物分類としては適当でないということで、構造主義分類学を提唱するのが本書の目的なのである(と思う)。
 あまりに駆け足で眺めてしまったが、この本には捨てる箇所がほとんど無い。どこかを読み飛ばしてしまうと、最後まで読んでも結論がわからなくなってしまう。それくらい色々と詰め込まれている。おもしろい本ではある。
 個人的には本全体の構成をもうちょっと違う風に編成し直したら、もっとわかりやすくなるのに、と思った。

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shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。