評価基準

 タイトルが仰々しくなってしまったが、要はこのブログで言っている「良い」「悪い」(なるべく「悪い」という言葉は使わないように気をつけているが)の基準は何か、ということだ。それは全ての分野(音楽でも珈琲でも絵でも本でも何でもかんでも)に共通している。評価基準はひとつしかない。私が「好き」か、「嫌い」か、ただそれだけである。私にとって「良い」とは「好き」と同義である。すべては主観的な私の感覚に基づく感想に過ぎない。
 そもそも客観的ということがこの世に存在しうるのか、私には判断できない。人それぞれによって感想は色々あっていい。それはすべて主観である。それらの総体は客観と言えるか。否である。それらは単なる雑多な感想の塊に過ぎず、到底ひとつの客観というものには成り得ない。ではそれらの平均(あるいは中心点)ではどうだろうか。一般にはこの主観の総体の平均を客観と呼んでいると思われる。しかし私にはこれも客観と呼ぶには心許ない定義だという感じがする。
 今でこそ「良い」と言われているモネの絵が、19世紀の終わりにもそうだったか。日本の中で良いと思われている風習が他国の人にとってもそうと言えるのか。そう、客観を決めるときの範囲が決まらないのである。どの範囲からどれだけの量の主観を持ってくれば客観を決められるかの定義がはっきりしないのだ。
 また次のような疑問もある。例えば、すべての人に同じ珈琲を飲んでもらって、おいしいという人が6割だったとして、その珈琲は「客観的においしい」と言えるか。言える、というのが大方の意見であるとは思うが、私には釈然としない。珈琲の「(一般にいう)良さ」を決めているのは、実はごく一部の人だ、という思いが私にはあるからである。それは品評会の審査員であったり、バイヤーであったりするかもしれない。その珈琲が「おいしい」という評価がもしあるとすれば、それは6割の人がおいしいと言ったからではなく、ごく一部の人がおいしいと言ったからではないのか。私にはその判断ができない。
 科学的であることが客観性を決めている、という人がいるかもしれない。しかし科学的であるとは、あくまで科学という決まり事の枠内の客観であり、それを一歩出たときには客観的な証拠とは成り得ないのではないか、と私は思っている。この辺のことは理解を得られない気がするが、もし私の言うことの意味がさっぱりわからないというのであれば、それは科学主義にどっぷりと浸かっているせいかもしれない。実は私はこの短い記事の中でこのことをうまく説明する自信がない。だからしないのであるが、興味のある人は科学哲学という分野の本を読んでみて欲しい。

 話が思いっきりわけのわからない方向に進んでしまった。私は文章で何かを人に説明するのが苦手である。私の文を読んでわけがわからなくなったとしたら、その責任は読者ではなく私にある。その苦手克服のためにブログを始めた、という話もあるのであるが、それはまあいい。
 とにかく、このブログ記事はすべて私の主観にまみれており、私の好悪しか述べていない、ということである。繰り返し言うが、「良い」とは私が「好き」ということであって、客観的に「良い」という意味でないことだけ、気をつけて欲しい。(この記事は何だったのだろう。読み飛ばしてくださって結構です。ひとりごとですから)

shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。