『大森荘蔵-哲学の見本』野矢茂樹

 講談社。「再発見 日本の哲学」シリーズの一冊である。野矢による本書は、「大森荘蔵」(1921-1997)という哲学者にスポットを当てている。野矢はある時期大森の生徒でもあったが、大森の生い立ちやら時代背景などには一切触れない。あくまで大森の遺した著作群から、大森が何に悩み、何を考え、何と戦ってきたのかを描き出す。野矢は言う。
「大森ブランドの哲学製品をショーウィンドウに並べ、解説したり値踏みしたりするのではなく、それを作り、壊し、未完成のまま低く呻き声をあげている、その生身の身体を、読者の前に差し出したい。乱暴に言い切ってしまえば、そうして、「哲学ってのはこうやるもんなんだ!」と見得を切りたいのである。」
そして、野矢のこの試みは成功している。読者は本書を読みながら、大森の思索の流れに乗って共に哲学する気分を味わえる。もちろんそれは本当の意味の哲学ではないかもしれない。しかし今のこの忙しい世において自分の哲学を突き詰めることができない中で、例えそれが他人のものであっても哲学を疑似体験する意義は大きい(と思う)。例を挙げよう。
 「私は腹痛を感じている」という文と、「彼女が腹痛を感じている」という文がある。これらは同じロジックに基づいているだろうか。「私」の場合、「私」自身が直接的に痛みを感じている。しかし「彼女」の場合、状況が異なってくる。「彼女」の痛みは「私」には感じない。「私」は「彼女」の状態を自分の状態に当てはめて「彼女が腹痛を感じている」とするのかもしれない。だがそれでは「私」は、「彼女」のお腹の中に「私」の痛みを感じているということにならないか。それは「彼女が腹痛を感じている」という文が意味しているものとは異なってしまわないか。あくまでここでの主語は「彼女」である。では「彼女が腹痛を感じている」という文は一体何を意味しているというのか。そもそもこの文は何ごとかを意味しているのだろうか。
 ここで、簡単には腑に落ちないで欲しい。考えれば考えるほどわけがわからなくなってしまうはずだ。今述べた例は「痛み」であるが、これは「悲しみ」にでも何にでも当てはまる。これは他我問題と呼ばれる。これを大森はどのように解決していったのか。それとも解決できなかったのか。
 今述べたのはひとつの例であるが、本書ではこの他に知覚の問題、過去の問題など様々な問題が取り上げられている。
 そして大森の思索を前期、中期、後期に分け、どのように考え方が変わっていったのか丁寧に追っている。物言語、立ち現れ一元論、重ね描き、語り存在などのキーワードで語られる大森の思索は多岐に亘るが、読者は安心して本書の文字の流れに身を委ねていればよい。そうすれば自ずと大森の思いが読者に伝わってくる。野矢の本文の構成の仕方は見事である。
 哲学初心者でも哲学書を読み慣れた人でもどちらでも楽しめる本だと思う。この本は最高におもしろい。

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shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。