『はじめての言語ゲーム 』橋爪大三郎

 講談社現代新書。言語ゲームとは、ウィトゲンシュタイン(本書では「ヴィトゲンシュタイン」となっているが、私にとっては「ウィトゲンシュタイン」の方が馴染んだ表記であるので、以下、この名前で通す。彼はウィーンで生まれ後にイギリスに渡った。「ヴィ」とするか「ウィ」とするかはドイツ語読みか英語読みかの違いであると思われるので、どちらも間違いではないと思う)の後期における中心となるテーマのひとつである。著者は言語ゲームのことを「規則(ルール)に従った、人びとのふるまい」と定義している。例えば「机」の意味を知っているある人Aが「机」を知らないBに説明する場面を考える。AはBに対して次々と机を持ってきて、これが机、これも机・・・と「机」を提示していく。するとBはあるとき「わかった!」となる。Bは机が何を意味するかのルールを理解したわけだ。すなわちBは「机」の意味を理解したということになる。ウィトゲンシュタインはこれらのやりとりのことを言語ゲームと呼ぶ。人が言葉を覚えるのはすべてこの言語ゲームによっている。さらに言えば世界のすべては言語ゲームによって説明できるのではないか、と考えたのが、ウィトゲンシュタインによる言語ゲームのアイデアである(本書による)。
 本書は言語ゲーム自体にとどまらず、ウィトゲンシュタインの生い立ちや時代背景などについても解説している。そしてこの言語ゲームをキリスト教や仏教に当てはめて考えるとどうなるか、だとか、本居宣長の思想との関連など、多岐に亘る考察を繰り広げている。
 しかし私は本書を読んでかなり強い違和感を覚えた。これは哲学書の顔をしているが、この本は哲学していない。ウィトゲンシュタインの思想についての断定した言質、ウィトゲンシュタインの名前を語って彼の思想とは関係のないところまで踏み込んでしまうやり方、言語ゲームを道具として扱って、それを利用していこうという考え方。これらのことすべてが、私にとっては道を外したやり方に思えてしまう。著者は社会学者であるという。本人は哲学的な問いに真摯に向き合ったことがないのではないか。本書の帯には「もっともわかりやすいヴィトゲンシュタイン入門書」と書かれているが、ウィトゲンシュタインをある型にはめ込み、ウィトゲンシュタインの哲学的思考過程、苦しみなどをほとんど捨象してしまった本書は、決してウィトゲンシュタイン入門書とは言えないと私は思う。確かにこの本はわかりやすいが、決してウィトゲンシュタインの哲学は書かれていないと思う。彼の哲学に触れたい人は、違う本を選ぶことをお薦めする。
 余談だが、不覚にも橋爪の著作をもう1冊積ん読状態にしてある。読む気が失せて困っている。

(ちょっと厳しかったかな?)

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shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。