『プルースト逍遥』室井 光広

 五柳叢書。五柳書院。副題「世界文学シュンポシオン」。シュンポシオンはプラトンの『饗宴』のことだから、つまるところ、プルーストの『失われた時を求めて』を題材にしていろいろと考えを巡らせて、「世界文学饗宴」を繰り広げよう、という内容の本である。
 現在日本で全訳されている『失われた時を求めて』には3種類ある。淀野隆三他訳の新潮社版、井上究一郎訳の筑摩書房版、鈴木道彦訳の集英社版(ちなみに私は筑摩書房版を2度読んだ)。本書はこれら3種の訳本を行きつ戻りつしつつ、ギリシャ神話、アリストテレス、プラトン、ラブレー、ベンヤミン、セルバンテス、キルケゴール、カフカなど、蒼々たるメンバーを引き合いに出しながら、気ままにプルーストの世界を逍遥(ぶらぶら歩きってとこですね)している。中でも著者の大のお気に入りは、プルースト、カフカ、セルバンテス、キルケゴール、ドストエフスキーの5人である(と私は受け取った)。
 この本は難しい。なのに下らないので、真剣に読む気が失せる。でも真剣に読まないと何が書いているかわからない、という、厄介な書物である。正直なところ、私はいらいらさせられ続けだったのだが、その理由はいくつもある。ただしここでその文句を蕩々と述べたからと言っておもしろくも何ともないので、ひとつだけ挙げるにとどめる。それはダジャレである(これを掛詞、地口、同音異義語、言葉遊びと取る向きもあるかもしれないが、私にはダジャレとしか思えない)。この書物で張り巡らされている思考の渦は、基本的にダジャレでつながっているのである。例えば、ユダヤ人を表すJewは「重」という漢語あるいは中国語の「チョン」につながっており、それはコリア語の「チャル」につながり、さらにそれは日本語の「チャラにする」と融合している、などとのたまい、それらすべてが『失われた時を求めて』とこれこれこういう具合に関わっているんだよ、と論を進める。もちろんこれらは語源的に何の関係もない。音が似ているからってそれはないだろう、と私は思うのだ。確かにプルーストはこの手の言葉遊び的なことを小説の中で繰り広げたりしているのだが、その小説を論ずるのに日本語のダジャレで応じる必要もないだろう、と私は思う。これが、私がこの本が下らないと思う第一の理由である。他にも多々いらいらさせられる理由はあるが、もういいだろう。
 実は著者はこれらのことをわかってやっている(そこがまた腹立たしいのだが)。本書は、著者の思考に忠実である。ただ、それをそのまま出版してしまう著者の神経がよくわからない。否、その神経はよくわかるのだが、それをやっちゃ駄目だろう、というのが私の個人的な意見。
 著者の思考に振り回されたい人は、是非手に取ってみてください。

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shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。