『九つの物語』J.D.サリンジャー

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 集英社文庫。J.D.Salinger。中川敏 訳。サリンジャーが自ら選んだ九つの短編を集めた本。
 著者は、緻密なストーリー展開を行って最終的には読者を納得させる、あるいは腑に落ちさせる、という物語の作り方はしていない。それよりも何か行間に漂う不安、恐怖、やるせなさ、やりきれなさ、小さな幸福感、といった微妙な感情を読者にも感じさせること、そこに主眼を置いているような印象を持つ。私の場合、その微妙な感情が心の中に自然にわき上がってくるためには、著者の時間軸に沿って、ゆっくりと時間をかけて読み進めていかなければならなかった。速読ではこの小説の良さは伝わっていかないのではないか。著者は骨組みだけを文章に記し、その肉付けは読者が感じる感情によってなされる。そんな気がしてならない。骨組みだけをその字義通りに捉えるだけでは、不条理劇を見せられているような気分に陥ってしまい、訳がわからぬまま小説が終わってしまうような気がする。
 気に入った短編は3つあった。まずは『バナナフィッシュに最適な日』。何らかの精神病みを持っているらしい青年の周りで起こる取るに足らない出来事が、なぜだか強烈な不安感を徐々に読者に呼び起こし、最後には思わぬ展開で幕を閉じる。2つめは『エズメのために―愛と惨めさをこめて』。かつて軍人だった男とひとりの少女との出会いとその後が、現在と過去のある時点の詳細な描写の中に、さりげなく語られる。二人の接触は驚くほど少ないにもかかわらず、絆は深い。最後にはある種の救済を感じさせ、九つの作品の中ではほっとさせられる短編。3つめが『テディー』。10歳という器の中の、それとは恐ろしい程のギャップのある知能。初めのうちその違和感に戸惑いつつも、次第にそれが必然に変わっていき、最後には神がかり的な超必然で終わる。著者の作品では珍しく、「その後」を感じさせない終わり方。
 思えば、高校のときに『ライ麦畑でつかまえて』でサリンジャーと衝撃的な出会いをし、大学に入ってすぐに『The Catcher in the Rye』を原文で読むほどののめり込みを見せたのに、その後彼の他の作品を読むことはなかった。そして今になって彼の短編と出会ったことに、何だか不思議な感慨を覚える。彼の作品群に目には見えないつながりがあるのと同じように、私の人生もまたひとつにつながっているんだ、というような感覚。彼の作品が、まだ私の中で生きている。

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shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。