『完全解読 カント『純粋理性批判』』竹田 青嗣

 講談社選書メチエ。原点の訳文に忠実に、しかもわかりやすく、をモットーにした、完全解読シリーズの一冊。
 確かにわかりやすい。ふつうの日本語になっている。でも本の中で述べられているように、これは著者の解釈であり、本当のところカントが何を言おうとしていたのかはよくわからない。どうもそのあたりで、カントファンには癪に障るところがあるらしく、この本は評判が悪い。私自身はカントに触れたのが初めてだったこともあり、それなりに楽しめたのであるが。
 人間の認識は感性に始まり、悟性へと進み、最後には理性に到達するという。感性と悟性はアプリオリに定まった形式に従い、つまり経験に忠実な部分でもある。対して理性は経験的対象からは直接的にはつながらない。そして純粋理性概念は、推論のみによって得られた概念だという。カントはこれに対して批判を加える。ただしここでいう「批判」という言葉が、一般に言われる「批判」とはどうも違う意味で使われているような気がしてならない。でもこのことについて本書では触れられていない。だから私にはカントの『純粋理性批判』がどうしてこんな題名になっているのか、ついぞわからなかった。その意味でも、私にとっては完全解読されていない。
 カントは世界に対する説明において必然的に現れる4つのアンチノミー(二律背反)を持ち出す。たとえば理性は、世界は無限であることも証明するし、有限であることも証明する。これはおかしい。どこがおかしかったのか、カントは説明してくれるが、ちょっとトリッキーな感じがした。そもそもこのアンチノミーを持ち出したこと自体がちょっと自作自演な気もしない。そう感じてしまうところに、きっとこの『完全解読』の罪はある。
 個人的に興味深かったのは、神の存在証明の不可能性を述べていたところ。このことはまた同時に神の非存在証明の不可能性をも示しているのがおもしろい。これに関連して、自然神学的証明への批判として、この証明が「世界建築師」としての最高存在者を示しているにすぎず、「世界創造者」としての神を証明してはいない、というのは素直に頷けた。しかし、次のようにカントは続ける。純粋理性による神の存在証明はできない。でも道徳の問い、すなわち実践理性の観点からはそれは可能かもしれない、と。このあとの話は『実践理性批判』につながっていくわけですね。
 なんだかこの記事(私の感想文)はハチャメチャですね。無学の証明みたいな。この紙幅で『純粋理性批判』の感想文なんて私にはムリ・・・(逃げた)

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shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。