『科学vs.キリスト教』岡崎 勝世

 講談社現代新書。副題『世界史の転換』。
 科学とキリスト教と聞いて、てっきり中心となる話題は天動説と地動説の対立や、ダーウィンの進化論なのだろうと思った。でもこの本で詳しく述べられているのは、副題にあるように「世界史の転換」である。本書では「古代以降のヨーロッパの伝統的なキリスト教的世界史記述」を「普遍史」と呼び、それ以降の「文化史を基軸とする啓蒙主義的・世俗的」な「世界史」とを区別している。そしてまさに、18世紀におけるガッテラーやシュレーツァーによる普遍史から世界史への移行こそがこの本の主題なのである。もちろんその移行の裏には科学の発達が大きく影響している。
 聖書では地球の歴史は6千年といわれているが、それでは中国の歴史の長さをうまく説明できなかったり、たった6日間で天地創造ができてしまう矛盾や、ノアの大洪水をどうやって説明すればいいのかや、もちろん地球が天体の中心ではないことなど、当時得られていた多くの知見が聖書の記述とはうまく整合しなかったことが挙げられる。その頃にはビュホンやリンネ、ブルーメンバッハによって自然や人間の位置づけも以前とは違うものとなっていた。
 そんな状況の中で、歴史家が聖書の記述と科学の知見をいかに矛盾なく説明するかについて苦労していた様が本書を読むとよくわかる。聖書の記述を解釈し直しながらも、アダムとエヴァによる人類の始まりやノアの大洪水だけは歴史から排除しきれなかったことなど、興味深い事実も知らされる。アダムが歴史から消えたのは、ダーウィン出現以降、ハックスレーやラボックが出てきたあとだというのだ。
 とはいえ、現在でも世界ではアダムが人類の始祖だと信じている人も多いと聞く。聖書の記述は絶対的に正しいと思っている人が少なくはないと聞く。現代に生きる日本人からすると、そんな馬鹿げたことを、と思う人が多いのだと思う。でもそれを馬鹿にすることはできるのだろうかと考えた。我々もまた、聖書と同じように科学という書物を信じているだけの違いしかないのではないか。同じ穴の狢なのではないか。そんなことをふと考えてしまった。科学を信じてしまう方が、より理性的に思えるのだとしても。

shizukiaki

札幌で絵やイラストを描いています。音楽や読書も好きなので、ブログではいろいろなジャンルの投稿をしています。